- 重源と西行・135
→ 八条院をめぐる人脈 /では関東の頼朝への勧進はどうであろうか
- 重源と西行・141
→八条院は両親から膨大な所領を譲られ、独自の地位を築いてきた女院であり、後白河の皇子の以仁王を養子としていたことから、以仁王の乱は八条院を舞台に起きており、清盛を討てという令旨は源行家が八条院の蔵人に任じられて東国にもたらされている
- 重源と西行・133
→では重源はどのように奥州と接触したのであろうか
- 重源と西行・142
→こうした源平の争乱期における八条院の特殊な地位が重源の勧進に生かされたに違いない
- 重源と西行・137
→この頼盛の行動を支えたのは八条院であったらしい
- 重源と西行・138
→兼実は姉の皇嘉門院が亡くなった後に八条院に近づき、その近臣の女房の三。局と親密になっていたことから、八条院によく出入りしていた
- 重源と西行・140
→さらに重源は博多にいる陳和卿を呼んだが、その当時の大宰府の長官は八条院の院庁を取りしきっていた藤原実清であったから、陳和卿にかんする情報は八条院経由で重源の耳に入った可能性もある
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